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まあ定義はなんでもよいわ。脳が認識し、思考する世界がすべてだと、多くの者たちは信じておる。その感覚が、歳を取ると緩んでくる、とでもいうのかな。
脳とは切り離された精神というか、魂というか、そういうものをいやが上にも感じるようになる。これが完全に分離していったときが肉体の死なんだろうと。
吾狼: 霊肉二元論ですね。
幽大: まあ、どうとでも言いたまえ。平凡でつまらん話だと思うならもうやめるが?
吾狼: イシ: いえいえ! 続けてください!
幽大: 霊魂と肉体という話で終わるなら、余輩もつまらんと思うさ。そこで、惚けてきたこの頭……まあ、これは「脳」だろうが……で精一杯考えたんだわな。
余輩が見ているこの世界が肉体を通して認識している世界なら、
現世は個々の肉体と紐づけされた存在なのではないか、とな。
ということは、吾狼くんやイシコフさんが見ている世界も、同じようにそれぞれの肉体と紐づけされておる。それは
同じものではないのではないか。3人いれば、3つの世界が存在している。100人なら100個の世界が存在している。その
複数の世界が重なり合っているのが現世なのではないか、と。
……ああ〜、余輩が言いたいことは、伝わっておるかな?
イシ: はい。分かります。すごくよく分かります。
実は私も同じように考えているんですよ。
私たちが見ている世界……幽大さんは「現世」とおっしゃっていますが、現世というものは単一の物質世界ではなく、個々の意識の「認識」にすぎないんじゃないか、と。
もっと分かりやすく言えば、3D映像のようなもので、世界の「実体」ではない。
3D映画を見ているとき、映像も音声もあるから、視覚と聴覚でそこにあたかも別の世界が存在しているかのような疑似体験ができるわけです。現世も同じなのではないか、と思うんです。
3D映画と違って、視覚と聴覚だけでなく、手で触れて触感を得られることで、その世界がカチッとした「もの」として実在していると錯覚しているけれど、それは3D映画に触覚が加わった程度のもので、私たちが唯一絶対の世界だと信じている物理世界もまた、「世界」の実体、あるいは「世界全体」ではないんじゃないか。
ということは、
物理世界は一つではなく、脳が認識する数だけある。その膨大な数の世界が幾通りにも重なり合う世界がまたある。人間の脳にはなかなか理解できないような、いわば
無限の多重構造になっているんじゃないか……と。
幽大: おお、分かってくれるか。なかなか言葉で説明するのは難しいんじゃがな。そういうことだ。
吾狼: それって、今のような時代を生き抜くためのテクニックにもなりそうですね。自分が見ている世界はいわば幻想というか、自分にしか見えていない映像のようなものなわけでしょう? その世界がどんなに理不尽でひどい世界でも、ゾンビ映画を見せられているようなものだと思えばいいわけですよね。実は世界の本質はもっと多次元、複層的なもので、自分も最後はその巨大な世界に戻っていく……みたいなイメージで生きていれば、腹の立つことやストレスの溜まることも、「まあ、これも所詮は俺だけが見ている出来の悪いゾンビ映画の世界のことだし」と思って、突き放せるかもしれませんね。
幽大: そういうことじゃな。
吾狼くんはまだ若いから、そういう考え方、使い方でいいだろうな。余輩のような老いぼれは、目の前の最大関心事は生きること以上に「死ぬこと」なんでな。ズルい使い方じゃが、死への恐怖を薄れさせるための思考ともいえるわな。
死は壊れたレンタカーを返却するようなもの